
会社概要
【企業名】
株式会社天狗本社
【設立日】
昭和13年9月27日
【資本金】
4,500万円
【役 員】
代表取締役:岩切千代子
取締役:安永公佳
取締役:嘉野文広
【住 所】
本社:〒899-4354 鹿児島県霧島市国分姫城3134-1
工場:〒899-4354 鹿児島県霧島市国分姫城3122
東京オフィス:〒100-0014 東京都千代田区永田町2-17-10-901
【事業内容】
・鉄、非鉄金属及びこれらの原料、製品並びに鉱産物の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・石炭、石油、天然ガスその他の燃料並びにこれらの副製品の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・各種機械器具(計量器、医療用具を含む)、製造設備、通信設備、公害防止設備等の設備、車輌、自動車、船舶、宇宙機器、航空機並びにこれらの部品の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・医薬品、医薬部外品、動物用医薬品、放射性同位元素、化粧品並びにこれらの原料の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・食糧、砂糖、油脂、飼料及びこれらの原料、畜類、農畜水産物、加工食品、酒類その他の食料、飲料の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・木材、セメントその他の建築資材並びに住宅設備関連機器の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・ゴム、パルプ、紙及びこれらの製品、たばこ、雑貨類の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・工業用水、飲料水の貿易業、売買業、代理業並びに仲立業。
・労働者派遣事業、有料職業紹介事業、人材の職業適性能力開発のための研修、指導及び教育事業。
・各種宿泊施設並びにこれに付随する飲食等施設。
・健康・スポーツ・娯楽施設・統合型リゾート施設。
・医療・福祉施設などの複合施設の経営。
・黒酢の製造販売並びに栄養食品及び健康美容に関する研究開発。
・温泉施設並びにこれに付随する一切の関連施設の運営。
・クレジットカードの取次及び斡旋。
・前各号に係るコンサルタント業。
・前各号に関連する事業。
沿 革
設立から改革
昭和13年09月27日 東京都北多摩郡調布町下布田999番地に、活動写真及び諸演芸の興業と劇場の賃貸を目的に調布劇場として設立 昭和20年08月15日 終戦 昭和39年10月10日 東京オリンピック開催 昭和43年05月05日 創立以来の調布映画劇場を閉鎖し、住宅産業のマンション事業に進出 社会への貢献と長寿国家の実現を使命とし、wellness & beautyを基本理念に「株式会社ダブリュウビイ本社(現:天狗本社)」の活動が始まりました。
逆境から興隆へ
調布映画劇場の名にふさわしく椅子席で2階建ての大型映画劇場であり、 閉館するまでには日活だけではなく外国映画も含め他社の映画も上映するようになりました。また時には各映画会社の試写会場としても使われました。 映画界についての貢献という視点で見れば、調布劇場の経営という場面だけでなく、松竹蒲田をはじめ京都に撮影所を置く各映画会社と深い関係を築き、人的関係も広く築いていきました。全作品のトーキー化もその一端でした。映画の松竹キネマ(株)と歌舞伎座や明治座を擁する演劇の松竹興業(株)を合併したばかりの松竹株式会社に当社も経営参加を致しました。 太平洋戦争のかすかな足音が次第に大きくなろうとするその頃、京王電気軌道(株)は一度廃止した乗合自動車業を再開、鉄道・バス路線の整備による東京西部郊外の住居環境を拡充していきました。やがて1941(昭和16)年12月8日に始まった太平洋戦争によって、映画制作・興行の体制は国策のもと変革を余儀なくされ、大日本映画製作株式会社=大映が製作部門を担うことになり、日活多摩川撮影所の主となりました。 それから敗戦…復興へ向けて… 改革されたダブリュウビイ本社を、時局の荒波が襲いました。太平洋戦争の戦禍で、多くを失ったのです。しかし、それでも同社は前を向いて立ち上がり、復興に尽力しました。決して「出来ない」とは口にせず「どうすれば出来るか?」を常に考えながら。 日本が、そして国民が灰燼から雄々しく立ち上がるのと歩調を一にしたダブリュウビイ本社は、そのまま高度成長の担い手となっていきました。復興や高度経済成長に欠くべからざる資源や資材。新しい日本を創り出す原動力となる機械や薬品。国民の体を作り健康を支える食品。全ての産業の基盤となる不動産―同社が扱う事業は、このように多岐にわたっていました。
昭和後期における活躍
当社が多方面にわたって活動した昭和後期は、高度成長を経て日本が先進国の仲間入りを果たす中で、それに相応しい変容や更なる努力を求められた時代でした。国際的地位に見合った世界的貢献、産業構造に伴う都市化への対応、高齢化に伴う福祉の充実などが急務とされ、国策としてそれらへの対応がなされる中、当社も日本社会の対局を見据え、あるいは国策に沿って、またある時は国策を先取りして事業を展開したり、よりよい日本を創るべく尽力してきました。その中で代表的な事業や取り組みを紹介します。
「シュロス」は百年の先へ
高度成長を経て産業構造が変化し、多くの働き手やその家族が都市に住まうようになり、より多くの住居が必要となりました。その中で当社は、単に住めるだけではない、入居者を安心させられる住まいを提供したい。堅牢なことは当然、内包する機能性や文化まで含めて百年の後までそこに在り続ける建物を造り、入居者に居住空間だけでなく安心や安全、さらには日々の安寧まで提供できるようにしたい。その一念から三井不動産や三菱地所、鹿島建設、東急建設などのデベロッパーや建設会社と提携して事業を推進し、当社の理想を実現する建造物が日本各地にその偉容を表すこととなりました。 これらの建造物には「シュロス(独語Schloss)」の名を冠しました。一般的には同種の建物を「マンション」と呼ぶのですが、本来mansionは豪華な大邸宅を指す言葉で集合住宅の本質からずれており、自社の集合住宅にはもっと相応しい名を与えたいと探し抜いた中で「シュロス」に行きつきました。この言葉は「城」さらに言えば「城館」城塞本来の防禦力に行政府や迎賓館としての機能も付与されたものを意味します。堅牢にして機能的な構造に文化的洗練まで備え、その偉容を百年の後にも保ち続ける集合住宅の名に相応しいものにしました。 記念すべき第一号「調布シュロス」が完成したのは、1969(昭和44)年のことでした。この調布シュロスは、天狗本社の前身(昭和13年設立)が経営していた調布映画劇場でした。 このシュロスシリーズは、調布のほか北九州の小倉や北海道の札幌など全国に48か所を数え、当社と志を同じくするデベロッパーや建設会社とともに、人が住みよく地球にやさしい集合住宅を続々提供していったのです。なお、シュロスシリーズにはクリニックやスタジオなど、病気の方や児童の体育振興を図る施設を付属させ、より多くの方々に多様な形での安心と安寧とを提供するようにして参りました。
ニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン・ロスアンゼルス
ロサンゼルスの日本人街「リトル・トーキョー」は日系関係の喧伝の場として好まれ、我が国の存在を示す場としてその役割を担っています。 1961年にロサンゼルス市が出した「リトル・トーキョーを再建・美化すべし。できなければ更地に戻す」との要求に対し、在米日本人の心の拠り所にして日米親善の象徴を護るべしと立ち上がったのが鹿島建設でした。その鹿島建設がリトル・トーキョーで遂行したプロジェクトに、老朽化していた「都ホテル」の建て替えがあり在米日本人の地位向上と日米親善に貢献する機会を得て三井不動産と語り、三井不動産が発注者として、当社はコンサルタントとして設計に携わり、当該プロジェクトは完成しました。 かつて在米中にホテルについてハード・ソフト両面から学んできた経験が活かせる好機でもあり、鹿島建設とともに高層建築の技を学びました。 試行錯誤を経て、地上21階、地下4階、客室数448室、レストラン・バー5箇所、宴会・会議室8室の規模を誇り、屋上には1,500㎡の日本庭園を設ける高級ホテルとして計画をまとめ、1974年着工、1977年に竣工しました。 最先端の欧米文明と伝統的な日本文化が融合したニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン・ロスアンゼルスは、訪米した日本人やロサンゼルスの日系人に好評を得たのはもちろんのこと、アメリカ人も初めて触れる日本文化に驚くとともにその魅力を認識し、「日本ここにあり」を知らしめる役割を果たすことができました。このホテルは名前こそ変わりましたが、今も日本庭園や日本料理店が人気を博し、ロサンゼルスの地で存在感を示し続けていることは、設計者として誇りに思うところです。
イラン・ジャパン石油化学
1970年代、イラン(パーレビ朝)と日本企業との合弁会社として「イラン・ジャパン石油化学」が設立されました。日本側の目的は、原油の4割をイランから輸入していたことから同国との関係強化にありました。イラン側の目的は主に技術移転でしたが、特筆すべきは石油随伴ガスの活用技術を重視していることでした。石油随伴ガスの活用技術を持たないイランは、石油を採掘する際にこのガスを燃やすしかありませんでしたが、活用技術が手に入れば、ガスを多様な産業に活用できることになります。石油随伴ガスの有効活用法をイランに伝播できることは、日本側にとっても利害を超えた意義と捉えられ、双方の協力のもとプロジェクトが進行し、石油化学コンビナートの建設が進められました。日本側で中心となった企業は三井物産ですが、日本・イランの関係強化と資源の有効活用とを目的とする本計画に当社も参加し、側面援護に尽力していました。なお、かつてイランがペルシアと呼ばれていた頃、唐朝を経由して日本に伝来したペルシアの優れた文化が古代日本文化の発展に寄与したことを思い起こし、その恩に報いたいとの念もあったことを付言しておきます。 計画の進行中に石油ショック(1973年)が起きて計画全体のコストが跳ね上がったり、イラン革命(1978年)によりパーレビ朝からイラン・イスラム共和国に政体が変わり信頼関係の再構築を要したりと様々な困難を乗り越えるにあたり、当社は持ち前の行動力と交渉力を発揮し、問題点を一つ一つ地道に解消し、計画の進展に貢献していきました。革命後にこの計画が国家プロジェクトとされた際には、企業に加えて国家機関との調整も必要となり、日夜奔走したものです。 各企業と政府の努力の甲斐あって、石油化学コンビナートの完成度は全体で平均85%、原料ガス分留プラントに至っては95%の完成度に達していました。しかし、イラン・イラク戦争が勃発し(1980年)プラントが空襲で破壊され、職員も退避せざるを得なくなり、この計画は中断を余儀なくされました。断腸の思いを禁じ得ないところでしたが、1989年10月に合弁事業の解消が決定し清算業務が山積している状況では、悔やんでいる暇はありませんでした。この計画の中心となっていた三井物産が清算処理まで担うこととなり、当社もその側面援護を最後まで続けました(清算処理は1991年末に完了)。
日本ヘリコプター輸送株式会社
医療の現場でもヘリコプターは離島からの急患の搬送や事故・災害への対応などに威力を発揮しますが、民間医療機関では救急ヘリコプターの活用の許可をされていませんでした。 問題を解消すべく、三菱商事と語らい、医療ヘリコプターを輸入すべく会社を設立しました。その甲斐あって地方自治体で独自に救急ヘリを導入するきっかけになりました。
医療と福祉のコラボレーション
世界に冠たる日本の国民皆保険制度は、誰もが医療に係り易い社会を実現しました。この制度が勤労者の資本たる肉体を守り、長年社会に貢献してきた高齢者の労に報い、次代を担う青少年を病魔や不慮の事故から救ってきたことが、現代日本の隆盛を支えているといっても過言ではありません。しかし、この制度がもたらした影の部分や、日本の医療の足りない部分に気がついたとき、それを打開してこその社会貢献だと思います。加えて、長く社会に貢献してきた高齢者が社会的弱者の立場にあることを看過できず、その救済を急務として事業の内外で様々な施策を打ち出しました。「病気にしない・病気にさせない・病気にならない」の三無運動を実践躬行してまいりました。薬に頼る対症療法から脱却して予知医学の啓蒙普及に努めて参りました。高齢者の尊厳を重んじることを軸として、医療と福祉のコラボレーションがコンドメディテルの具現化であります。 高齢者を弱者として救済すること、これが主題です。
健康俱楽部
今でこそ社会人向け会員制スポーツクラブは珍しくありませんが、その嚆矢となったのが健康俱楽部です。学生から社会人になるのに伴って運動を止めてしまう人が多く、運動不足による身体能力の衰えが社会人の健康を損なうことを問題として捉え、社会人にも運動習慣を身につけてもらうことで健康寿命を延ばしていきたいと考えました。そこで、当社と志を同じくする三井不動産と提携し、ターゲットたる社会人に向けたコンセプトを練り上げ、都会に暮らす大人のための会員制スポーツクラブを計画。その第一弾として「健康俱楽部GINZA」を1985年にオープンさせました。 健康俱楽部GINZAは830㎡の広さにトレーニングルーム・スチームルーム・ジャグジールーム・ロッカールームそしてジュースバーまで備え、36種類もの米国パラマウント社製運動器具を導入する まさしく最先端のもので、たちまち人気を博して大盛況となり、男女別に利用日を分けねばならないほどでした。次いで健康俱楽部は池袋と恵比寿に、さらに札幌、柏にも展開し、1989年には合計で一万人を超える会員を獲得しました。 利用者に健康増進のみならず肉体美をも与え、大人の社交場も兼ねうる先進的で都会的なスポーツクラブは社会人にとって垂涎の的となったわけですが、これが成人に運動習慣を根付かせるのに大いに貢献したものと自負しています。成人になってからも習慣として運動を続けることは国民の健康維持・向上に資するもので、病気や老化を抑止するものでもあり、まさに当社が志す長寿国家の理想を推進する事業であります。
高齢者のための「コンコルド・ヴィラ洞爺湖畔」
我が国の経済成長に貢献した高齢世代は、70歳に到達し第一線を退きました。老人を老人ホームに「入れない・入らない」を提唱する我が社は、そのコンセプトに賛同する三井物産と共同して1987(昭和62)年、洞爺湖畔に診療所を併設した「コンコルド・ヴィラ洞爺湖畔」を設立しました。
会員制健康管理システム
医療の充実は急務ですが、同時に対症療法の限界もあり、病気になる前に予め患者の持つ疾患を予知予測して、「病気にしない・させない・ならない」をテーマに、1988(昭和63)年には、病気になる前の段階で統合医療システム(Total Medical System)を発表しました。 国内のみならずボストンの医療機関(マサチューセッツ総合病院)ホノルルの(ストラウブ総合病院)とも提携して会員組織による医療ネットワークを構築したもので、日本初の会員制総合健康管理システムでもあります。 TMS研究所は「がん」「心疾患」「脳血管疾患」「糖尿病」「透析」撲滅の研究に重点を置き、発症前の予知医学研究開発(疾病発生予知システム)をするものです。
救急救命士の制度化
かつて救急車には救急隊員しか乗っておらず、救急隊員は医師でも看護師でもないため医療行為ができませんでした。目の前に一刻を争う患者がいるのに何もできず、救えなかったときは患者の家族から救急隊員が非難されることもありました。 この問題を解決するのに「重症患者に適切な処置ができる救急隊員」が必要と考えたことから、医療関係者としてその実現のため東奔西走しました。 先進病院の経営者として、医師など有識者を説き伏せて救命救急の必要性を認識させ、報道関係に働きかけ、国民全体の啓発を図る番組の企画を組んで、法整備を行いその結果、1991年(平成3年)4月に救急救命士法が制定されました。 心肺停止を含む重症傷病者に対して「救急救命士」が車内で適切な救急救命処置がとれるようになりました。それにより患者の救命率や社会復帰率が向上したのです。
「心療内科」の診療科目標榜
「病は気から」という言葉がありますが、従来『精神科』の領分とされていた「精神異常」の分野を、近代化の影響で心と体の関係が「ストレス」という近代病に分類される『心療内科』を九州大学の池見酉次郎教授と日本大学の桂載作教授とともに心療内科の普及に努め、厚生省から『標榜科』の認可を下付されました。 当社の社是:社会貢献として、弱者救済の最たるものであります。 西洋から伝わった精神科は、いつのまにか苦しむ患者を閉じ込める座敷牢まがいの精神病院へと変容していきました。そのイメージにより、心の不調があるのに精神科の受診を敬遠する人が増え、日本人のメンタルヘルスが悪化こそすれ向上しないことが憂いの種のひとつでした。そんなとき、九州大学の池見酉次郎教授と知己を得、心の病に苦しむ多くの人を心身医学によって救う方策を探り、それを実現するために各方面に働きかけました。1996年、厚生労働省により「心療内科」が認められたことで、その動きが結実したのです。 メンタルヘルスの改善は早期発見が肝心ですが、受診しやすい心療内科の登場によって多くの人が心の不調を悪化させずに済んだと確信しています。 このように多岐にわたって事業を展開してきたダブリュウビイ本社ですが、これらの事業には社是たる「社会貢献」、そして健康と美(wellness and beauty)を重んじる価値観が通底していること、長きにわたる社歴において無借金経営を貫いてきたことなどを付言しておきます。
未来を切り開くひとすじの光
時代の流れとその先を見据え、社会貢献に邁進してきたダブリュウビイ本社は、令和への改元と共に社名も変更し、現在の「天狗本社」になりました。少子高齢化が進行し、一億総活躍が提唱されている現代において、健康寿命の増進を図り「長寿国家」の実現を目指す天狗本社の指針は、まさに現代日本の社会に貢献するものと自負するところです。老若男女を問わず、誰もが健やかに美しく活躍できる社会。そのような社会を日本で実現し、長寿国家実現の道筋を近隣諸国へもつなげていきたい。 83年にわたって続けられた天狗本社の挑戦と奮励努力は、これからも続いて参ります。
各種事業紹介
黒酢事業部
当社の黒酢造りは、50年以上にわたる健康へのあくなき探求の結果、健康に必須となるアミノ酸や有機酸を豊富に含む南九州伝統の黒酢に着目し、伝統の醸造方法を受け継ぎつつ改良することで世界最高峰の黒酢を完成させています。
熟成期間のこだわり

熟成期間にもこだわりを持っています。一般的な黒酢の熟成には1年から1年半かかります。しかし、当社の黒酢の熟成期間は、より良質なアミノ酸を得るため約5年間をかけています。そしてさらに熟成期間15年以上もの黒酢も貯蔵しています。
アクリルハウスの導入

鹿児島の伝統である黒酢の製法は、野外に壺を並べて発酵と熟成を行うものでした。その伝統を受け継ぎながら衛生的な環境と安定した品質を実現するため、全天候型のアクリルハウスを設置しました。 その衛生的で安定した環境の中で、職人たちが毎日手塩にかけて黒酢を育て、天候に左右されない安定した品質の製品を送り出しています。
こだわりの全麹製法

天狗本社の黒酢は農林水産省が定めた食酢品質表示基準を大幅に上回る量の原料を使用し、時間をかけてじっくりと熟成させているため、栄養価が高く濃厚な黒酢に仕上がります。 旨味成分でもあるアミノ酸の量が段違いに多くなることで、芳醇でのど越しのよい黒酢に仕上がり、毎日美味しく飲用していただけます。 その秘密は「全麹製法」。全ての原料を時間と手間を惜しまずに麹化して仕込み、コンピュータ制御の「全自動麹装置」で適切な湿度、温度、時間での全麹仕込みを可能としています。
工場詳細

〒899-4354 鹿児島県霧島市国分姫城 3122 TEL:0995-45-1400 Email:mail@tenguhonsha.co.jp 鹿児島空港から約15分 鹿児島市から約40分
温泉宿・レストラン事業部


温泉の街、岩手県花巻市に、新たに温泉宿「新花巻温泉 柘榴園 華陀の湯之宿」が誕生しました。 新花巻温泉 柘榴園 華陀の湯之宿は、温泉の掘削からの期間が花巻の中で最も新しく、毎分600Lもの豊富な湯量を誇ります。 湯上りに肌がしっとりとすることから、早くも美人の湯として好評。 遠方から時間をかけてでも、お湯に入れば納得していただけるはず。 そのくらい、泉質の良さに自信を持っております。 《源泉成分》 ■泉質 アルカリ性単純温泉(源泉100% 掛け流し) ■効能 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、うちみ、関節のこわばり、痔疾、慢性消化器病、くじき、冷え性、病後回復期、疲労回復、アトピー性皮膚炎など ※効能には個人差がございます。
大露天風呂

温泉の醍醐味は 自然を肌で感じながら浸かる露天風呂。 新花巻温泉 柘榴園 華陀の湯之宿は 一度に約80人が入れるほどの広さが魅力。 夜には明かりが灯り 昼間の自然あふれる景色とは異なる 幻想的な雰囲気に。 春夏秋冬、情緒ある露天風呂をお楽しみください。(男女別)

大浴場(内風呂)

お湯は、天然温泉100%掛け流し。 アルカリ性単純温泉で、ツルツルとした肌触り。 まるで絹のように、肌を優しく包み込みます。 美肌効果があるといわれ 特に女性のお客様にご好評いただいております。 露天風呂と同様に、内風呂も広々としたつくりに。 足を伸ばして、お湯の良さをご満喫ください。
日帰り入浴

日帰り入浴も歓迎しております。 天然温泉100%掛け流し、女性に人気の美肌の湯ですので お湯目当てに訪れるお客様がたくさんいらっしゃいます。 宮沢賢治スポットを観光した後や、ドライブの途中などに どうぞお気軽にお立ち寄りください。 ご利用時間/9:00〜20:00(最終受付) ※毎週木曜日は露天風呂清掃日
純和風、くつろぎの客室

落ち着いた雰囲気が漂う、純和風のお部屋です。 お部屋の種類は、8畳と6畳の2種類。 窓を開けると、季節によって表情を変える山々が広がり 耳を澄ますと、小鳥のさえずりが心地よく聞こえてきます。 日頃の喧騒を離れ、ごゆっくりおくつろぎください。


本格シェフが作る創作料理
フランスのミシュラン1つ星・2つ星レストランで修行を積んだシェフが、厳選された食材を使用し、季節感あふれる料理を提供します。ぜひとも本格シェフが創る料理をご堪能ください。

施設詳細
〒025-0302 岩手県花巻市糠塚1-13-21 TEL:050-5211-8057 《交通のご案内》 花巻ICより5km約6分 東北新幹線新花巻駅より13km約19分 いわて花巻空港より10km約15分
お問い合わせ
下記のフォームよりお問い合わせください。